◎どんなことがあっても、これも親先生の祈りの圏内だと信じられてはじめて合楽の信者といえる。

昭和56年3月17日 朝の御理解              御理解 第62節                      「昔から人もよけれ我もよけれ、人より我が尚よけれと云って居るが神信心をしても、我が身の上のおかげを受けて後に人を助けてやれ、神信心も手習も同じ事、一段一段進んで行くのぢゃ、俄に先生にはなれぬぞ。」                     
 絶対信という事を申しますね。絶対。いわゆる神様を信じきるという事です。絶対信。その絶対信というのをお道の信者風に頂いたら、お取次を頂いての働きというものを信ずる事。これは今広東教会の初代でしょうか、高橋博司先生ですかねの言葉だと承っておりますけれども「お取次を頂いておきてくる事、善い事・悪い事・皆善い。お取次を頂かずしておきてくる事、善い事・悪い事・みな悪い」と、いわゆるお取次の働きの絶対信なんです。
 お取次を頂いての事であるから、右にならうが・左にならうが、絶対おかげの方にしかなっていないんだという確信。お取次を頂いておきてくる事、善い事・悪い事・みな善い。お取次を頂かずしておきてくる事、善い事・悪い事・みな悪い。すばらしい極言ですね。絶対信お道でいう絶対信はここの所を信じれれる信者にならせて頂いた時に、お道の信心者としてのお取次の道に御縁を頂いて、ここまでの信心が頂け分かった時に、まあいうなら本当の信者、金光教の信者という事が云えるのぢゃないでせうか。皆さんどうでしょうか。お取次頂いたばってん、おかげ頂ききらぢゃったと。そのおかげ頂ききらぢゃったというその事が、実はおかげなんだ。
 例えば今度今高校・大学の試験が御願いをした。けれどもまあ落ちた。けども落ちた事その事が、おかげなんだと頂けば絶対おかげになるのです。はあおかげ落ちておってよかったという事になるんです。そりぁもう例を云ひや限りがないでしょう、金光様の信心を頂いて、そこの実感そこの体験が積まれていく時に、はじめてねいうなら我が身におかげを受けたという事なるのぢゃないでせうか。そして後人を助けてやれとこうおっしゃる。だからそこまでが信心。
 昨日は林さんが毎日ああして日参されますが、前日の十五日の信徒大会に親子でおかげを頂いて、もう親子で終始感動し続け、帰り道息子と話してかえりましたち。もうとりわけ久富正義先生の話なんかは、親先生との出会いの所から今日おかげを受けておられる様子を聞かせて頂いて、もう本当に信心のない息子までも感動したと申しとりましたというお届けでした。本当にそうでした。皆さんもそうだったと思います。
 そしてならば正義先生が親先生との出会い、そして今日おかげを受けておられるという中には、さまざまな事があった。そのさまざまな事が、結局みんな今日のおかげの元になっておられるという所をみると、お取次を頂いておきてくる事、いうならば善い事・悪い事みな善いという事になるのぢゃないかとという、そういう意味の事を話して帰ったというお届けがありました。
 それで私が申しました。合楽の信者というのはなら私は合楽の信者でございますと、云えれるまあいうならば信心とは、どういう場合であっても親先生の祈りの圏内にあるのだと分かり、それを信じさせて頂く所まで行った時に私は合楽の信者です。信奉者ですと云う事が云えるのぢゃないかと云うふうに申しました。それを云いながら確かにそうだと思いました。
 どんな事が日々いろんな事がありますが、その総てがね日々親先生の祈り、祈っておって下さるその圏内におきてくる事なんだと、それをならここでは目の当たりに、見たり・聞いたりしながら、成る程親先生の祈り中にあるんだなあ、という事が分かってくる。親先生の祈りの圏内におきておる、例えばちょっと目先には困ったなあとか・損をするなあとかいうふうにあっても、それも祈りの圏内にあっての事であるから、そこん所を云うなら合掌して頂くような心の状態になっていけば、おかげになると確信していけれる生活。
 そういう信者をいうならば、合楽の本当の信者という事になるのぢゃないでせうか。しかも合楽の場合有難い事は、それがねそのとおりだと云わんばかりに云うならば、私自身がおかげを頂いて皆さんに、見てもらい・聞いてもらい合楽でお取次を頂いてお願をしていかれる、その御信者さん達のおかげの頂かれておられる様子を見ながら、信心の稽古をさせて頂くのですから、こんなに確かな事はない。成る程親先生が云いなさる事に一分一厘うそはない・間違いはないと信じれる時にはじめて合楽の信心を頂いておる値打ちもさる事ながら、合楽に御縁を頂いておるいうなら、合楽の信者でございますと云え、又そういう信心を頂いて人に伝えていくならば、人が助からんはずはない。いうなら絶対信をもって人に伝えていけれるのですから、その絶対信が伝わらない筈がない。
 ね、昨日・一昨日の信徒大会の時にお話をさせて頂きました。いやここ五・六日その話がちょっちょっと出らんこつがないように出ておりますのが、もうここでは長年の信心を頂いておりますけども、そげん日参り・夜参りせんでんおかげ頂くといったような、又実際その何んというでしょうかね、きちっとした所があってですね、おかげを受けておられる家庭に今度いうならば一家の中に、もうそれこそ真っ暗になるような事件がおきた。というのは中学に行っておる息子さんが、それこそびっくりするような書き置きをおいて家出した。もう始めてそこの長男夫婦というのは、信心まあ年に何回か位しか参ってこんのですけれども、もう毎日毎日夫婦で日参りをしてまいりました。
 心配はいらんと云うてもやはり心配になる。ね、日頃信心を例えば兎に角、その心配はいらんと先生は云われるけれども、これが心配せずに居られようかというような毎日であった。参ってくる。もう本当に意気消沈してもうそれこそ悲しい悲しいお参りであった。信徒会の時にもお話しましたように、信徒会の朝夫婦で参って来た。
 そしていつもと違うんです。まあいうならば表情からちがうんです。夫婦ながらそして親先生おかげ頂きました。今までの私共のお願い信心でしたけど、今までの信心はなっとりませんでした。こと事を境に本当な信心を目指させて頂こうと思わせて頂いたら、心が、いうならば有難うなってきた。又その通りの感じでした。おかげ頂くばい。それも先生昨日そのまあ心当たりの所を、探してまいっておりました。
 そして丁度食事時になりましたから、食堂に寄って食事をした。そしてカツ丼の注文をした所が来たのは親子丼であった。あら私はカツ丼を頼んだが、あらそりぁすみませんでした、取り替えましょうと云うたけれども、いやこりでよかばのというてその親子頂きながら、おかげになると思うたと云うのです。親子の者がままになるおかげが頂ける。何かもう付いた物が落ちたよう心の中がすきっと安心が出来てきた。
 そして今までの信心が不信心であった事に本気で家内と二人で話し合うて、今までの俺達の信心はなっとらぢゃったなあ。本当に今度の長男のそういう事で、ひとつ本気で信心を頂こうと夫婦で話し合えるようになったという、お届けがあの信徒会のお話の中にそこまで出とったです。信心とはそこです。おかげを受けるとか受けないぢゃなくて自分の心がね、ぱぁっとこう。今天地の開けた音を聞いて目を覚ませとおっしゃるように、こころが今までもう重くるしゅうて・苦しゅうて出けなかった事がすっきっと取れたようなね、心の状態になれるものです。そういう状態になれた時にはもうおかげ頂いたも同じ事です。分かっただけぢゃおかげにならん、心がそういうふうに助かって助かってこなければという所まで、信徒会の時も皆さんに聞いて頂きましたが、昨日の朝御祈念の後にお父さんが参ってまいりました。
 それこそ男泣きに泣いてから、おかげを頂いたというのです。午後からはお母さんと本人を連れて参ってまいりました。何んとはなしに、福岡辺りに居るような気がしましたからあの、福岡の大橋の今電車のあの商店街が出来て食堂街があるそうですね。いわゆる親子丼を頂いたというその食堂街に行った時に、食堂の前に息子が会うた。それこそ親子対面が出けた。もう兎に角眼鏡をしとるとが眼鏡を取っとりましたから、初めは息子ぢゃろかと思うたら、間違いないから、それこそひっつかめるようにして、あのつかまえて、つかまえてちいうが、そりこそ又逃げちぁならんと思うて、一生懸命で連れて帰ってこんこんと息子の話も聞いた。又私共親の話も聞いてもろうて、まあおかげを頂きました。
 兎に角もう五日間疲れきってなんしとりますから、私が今日は取りあえず朝お礼に、出てきたというお届けでした。しかしまるきりお芝居のごたるですよね。合楽の場合はうそのような本当の話ですもんね、合楽の場合はいつも、そういう事実をね皆さんがいつも、見たり・聞いたりしながら信心をしとられるという事は、こげなすばらしかこつはないという事を、私は今日は聞いて頂きたいです。午後から本人とお母さんが参ってまいりました。
 して話を聞かせて頂きましたのですけれとけも、今でもそげなこつがあるじぁろかと思うたんですけれども、土方の仕事をしとった。兎に角もう五日間居る間に一ぺんお風呂に入ったけれども、もう泥水、ドロドロなってもう一ばん若いから一ばん最後に入らんならん。
 そして毎日お弁当を持って行くけれども、それには梅干がいっちょ入って、たくあんが二切れしか付いとらん。もうしみじみ云うならば親の有難さ分かり、家の有難さが分かり、晩やすむ時でも、せんべ布団一枚で寒して寝られん。それでもきちっと五時には叩き起こされる。いわゆる叩き起こされる。
 そして夕方の、夕方晩の八時に帰ってくる。それから皆小さい風呂に皆が入って、新入りですから一ばん最後。もう兎に角涙をぼろぼろ流しながらお父さんが云うんですよ。帰って風呂に入らせましたら、もう肩が真赤にこんなに腫れ、モッコを担いで本当によか勉強して親も勉強しましたが、子供もよか勉強させて頂いたというてお届けをしておりましたが、本当にそれは難儀な事ではなくて、その家のうちの、いうならば信心の転機ともなるものであった。
 そしてそんなそれこそ、何かドラマチックなまでのすじがきの通りに、親先生が云はれたとおりにおかげを受けた。しかも親子丼を頂いたその親子共々ままになるというた、そこの前でぱったり息子と会うたちいう。けどもそういうふうにいうと皆さんも、ほうと思いなさるでせうけれども、そういうおかげの中にいつも、皆さんはあるという事ですよ。
 そういう祈りの中に親先生の祈りの圏内の中にあるという事は、例えばそれがそういう事ではなくて、平穏無事であった時などはもういよいよもって、御取次を頂いて日々信心の稽古をさせてもらい、親先生の祈りの圏内の中にあるんだと本当に分かったら、もちっと神恩報謝の心も厚うなり信心の手厚い信心も出けるようになり、信心の構えもいうならば出けるようになろうというもんです。合楽の場合はお話だけぢゃなくて実際にです、見せたり・聞かせたりしながらのおかげであるから、そんなら私共一人一人の上にもですね、それこそお取次を頂いておきてくる事、善い事・悪い事・皆善いという頂き方、いうならそういう絶対信が、いよいよ育ってくるという信心、親先生の祈りの圏内の中に起きてきておる事だと、しかも善い事・悪い事がおかげであると頂けた時に、あなたは本当の合楽の信者になったなと云える時ぢゃなかろうか思います。                                           どうぞ